2024年12月27日

七夕の雨闇

七夕の雨闇: ―毒草師― (新潮文庫)

七夕の雨闇: ―毒草師― (新潮文庫)

  • 作者: 高田 崇史
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2018/06/28
  • メディア: 文庫

<カバー裏紹介文>
「……り……に、毒を」被害者は奇妙な言葉を遺して死んだ。毒物の正体は不明。親戚にあたる星祭家では独特な七夕祭を執り行っており、異様な事件が連続する。《毒草師》御名形史紋らは、京都に乗り込んだ。和歌に織り込まれた言霊を手掛かりに、笹・砂々・金・星の言葉を読み換え見えてくる禍々しい真相、日本人を縛る千三百年の呪。「七夕」に隠された歴史を明察する傑作民俗学ミステリー。


2024年11月に読んだ11冊目=最後の本。
高田崇史の「七夕の雨闇: ―毒草師―」 (新潮文庫)
QEDシリーズのスピンオフ、毒草師シリーズで、
「毒草師 QED Another Story」 (講談社文庫)
「毒草師 白蛇の洗礼」 (朝日文庫)(感想ページへはこちら
「パンドラの鳥籠: ―毒草師―」 (新潮文庫)(感想ページはこちら
に続く第4弾です。

シリーズ4作目ということで、御名形の嫌な奴ぶりにも慣れてきました。
語り手西田による紹介とはいえ、
「御名形は、毒草はもちろん、それ以外の毒物に関しても専門家並みに詳しいのだ。そして、何故そんなことまで知っているんだというような、民俗学などの分野の知識も豊富な変人なのである。まさに、御名形の地元、和歌山の伝説の大学者・南方熊楠を連想させる。」(156ページ)
と、南方熊楠を引き合いに出すほどの人物に造型されています。すごすぎますね。
まあ、ちょっととんでもない事件すぎて、これくらいでないと解けないかも、ですが。

今回の歴史上(?)の謎は七夕。
前作「パンドラの鳥籠」でも七夕は出てきましたが、今回はメインテーマ。

「パンドラの鳥籠」
「だがこの話は、まだまだ長くなるから、今日のところは止めておこう」(362ページ)
と御名形は七夕伝説と浦島太郎のつながりについて言及していますが、今回はそれとは違います。(違うとはいえ、そこは高田史観に裏打ちされているので共通する部分は多い、というか、コンセプトは同じなのでしょうね)
.
毒草師シリーズということで今回も毒殺事件を扱っています。
解毒斎(生まれつき+訓練によって毒に対する耐性がかなり強い人のこと)が毒殺される、という注目の事件。

この謎解き、常人には推理不能ですね......警察の科学捜査も太刀打ちできないですし。
御名形の推理を聞いて、素人としてはそうなのかな、と思いつつも、なんだかうまく誤魔化された気がするのも......
このシリーズは、こういう作品群だと割り切って読むのがよいのでしょう。

明かされる七夕の闇は、いつもの高田節ではあるのですが、あまりにも籠められた怨念がすごすぎて、七夕が怖くなってしまいそう。
こういうのは、無邪気に表面のお祭り的側面を楽しむのがいいのかも。

それにしてもこのシリーズ、語り手西田と御名形の対比が際立っていますね。

語り手の西田真規、美人に会うたびにどぎまぎしてしまう人物で、察しが悪すぎないかと思うところは多々あるもののお人好しとして描かれています(語り手だからという以上に)。
最後の方でかなり酷い目にあわされるのですが、
「さすがに少し腹立たしかったが、とにかく〇〇がとても恐縮していたので、彼女の顔を立てて男らしく許すことにした。」(417ページ)
なんて! いくらなんでもねぇ。
恋心(?)に目がくらんだということでしょうか? うまくいくといいね(笑)。

対する探偵役を務める御名形は当然のように、傲岸不遜で、一般的な嫌な奴。
「本当にあなたは」「第三者として尋ね難いはずのことを平気で尋ね、言いづらいことを言わせようとしますね」(375ページ)
なんて、関係者から言われたりしています。すごい。
高田ミステリにおける探偵役はこうじゃなくちゃ務まらないかもしれません。

また、この作品では、折々、QEDシリーズの桑原崇や棚旗奈々を思わせる人物に言及されたりするのがちょっとおもしろいです──しかも、棚旗の名を御名形から聞いた西田が「しかし、こんな男の口から名前が出るのだから、その女性も間違いなく変人仲間に違いない。だから、お近づきにならないに越したことはない。」という感想を抱いていて笑ってしまいます。高田崇史さん、いつか、きちんと会わせてあげてください。すれ違いではなくて(430ページご参照)。桑原崇には会わせなくていいですが、棚旗奈々の方には。西田はまたびっくりすることでしょう。

シリーズはこの後出ていないようですが、作中ある人物が
「また、お目にかかれるそうですよ。」(426ページ)
と八面の賽子の結果、御名形に対し言っているので、きっとまた別の事件で登場してくれることでしょう。


<蛇足1>
「おそらく、江戸時代くらいからじゃないですかね。ちなみに、室町時代に始まった観世流などは、現在で二十六代といいますから」(23ページ)
竹河流能楽の宗家が十六代というのを受けてのセリフです。
十六代にせよ、二十六代にせよ、伝統というのはすごいですね......

<蛇足2>
「その彼らが、一所懸命に敬二郎を慰めている様子が見て取れた。」(30ページ)
なんだか久しぶりに「一所懸命」という正しい表現を目にした気がします。
高田崇史、安心できますね。

<蛇足3>
「そこは、六人ほどで囲めそうな、ゆったりしたテーブルのある足落としの席だった。」(154ページ)
足用に掘ってある席のことです。「足落とし」というのですね。耳慣れない表現ですが、ぴったり。今後使おうと思いました。

<蛇足4>
「きみは」と御名形は表情一つ変えずに言う。「本物の、ポプルス・エラーンスだな」
「は? 何ですか。パープルのセーラー? 紫色のセーラーって」(288ページ)
西田の聞き間違え力(なんてものがあるのか知りませんが)がすごい。そうは聞こえないでしょ?(笑)
”ポプルス・エラーンス” の説明は、はるか後、429ページに出てきます。
ネタばらしにはならないものの、色を変えておきますね。
「ラテン語で『さまよい人』という意味だよ」

<蛇足5>
「あの人も、自分の命が長くないことを知っておらはったんどす。」(377ページ)
京都の言葉について、間違っている!と言い切る自信はないものの、おさまりの悪い表現だと思いました。「知っておらはった」ではなく、自然な音便としては「知ったはった」となるような気がしますね。

<蛇足6>
「ウイスキーや焼酎などの蒸留酒と、ワインや日本酒などの醸造酒を呑んだ時の酔い方は違うはずです。肝臓で、アルコールデヒドロゲナーゼが単純にアルコールを分解する場合と、夾雑物が混じっているアルコールを分解するのとではね」(385ページ)
いままでの自らの無知が恐ろしくなりますが、蒸留酒と醸造酒によって酔い方が違うというの、激しく納得できました。ありがとう御名形。
posted by 31 at 19:00| Comment(1) | 日本の作家 高田崇史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんちちは。私もSSブログからシーサーブログへ移転しました。今後ともどうぞよろしくお願いします。
Posted by ふるたによしひさ at 2025年01月14日 15:37
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